伊東ご足跡碑
- (建立)
- 一九六四年(昭和三九年)二月一二日
- (所在地)
- 静岡県伊東市 音無神社境内
- (碑文字)
-
出居清太郎先生
御足跡記念碑
大正十四年六月十二日 - (揮毫者)
- 亀井清堂
- (碑裏面)
- 日蓮岬を初めとして史跡を尋ねての苦難道中の感
大正十四年六月十二日
我が魂を洗い浄めむそのために
月日と共に旅を続けて
音無の宮の森からこの我を
迎へてくれる山鳥の声
日は暮れる足は疲れて腹はへる
一夜の宿を木の根まくらに
みやしろのみ前にたちて我誓う
衆生済度に身を捧げなむ
流れゆく水に残れる物語り
仰ぐ夜空に星輝けり
偶感 昭和三十七年十二月二十九日
三十八年夢のごと
音無宮の森かげに
そゞろ昔を偲ぶとき
風のさゝやき水の音
木の根枕に袴して
落つる涙を払いつゝ
古の糸を手探れば
思いは深し感無量
出居清太郎先生は 明治三十二年十月三日栃木県佐野市高萩に尊父幸八氏と慈母コマ刀自との間に三男として出生された生前御母君は信仰の念特に篤くこの子は将来家を興こし人を救い世を明るくする使命をもって生まれるものと悟り晴着を身につけ産褥につかれ御三男であったか清太郎と命名されたのであった幼くして頭脳明敏真理探究の心深く父母の訓育と相俟って十七才にして救世の志を抱いて上京し二十四才にして神理研究会を結成してこれを指導してこられたたまたま 大正十二年九月関東大震災に遭遇しその惨状を具さに目撃された先生はこの惨状こそ人類に対する神の警告であると悟られ御母君の訓戒たる衆生救済の使命重大なるを思い一そう道を修め魂を磨かんと天の啓示により再び東京を後に日蓮上人の足跡を学ぶため日蓮岬へ修業に向われたこの時その周辺をさまよい下駄はへり衣は破れ空腹となり東京へ帰る旅費もなく図らすもこの処に一夜を明かされた恩師総裁先生は 私は常に富士山を尊敬し愛していますその富士山のある静岡県民を何とか救いたいと念願しそのため富士山を修養の目標として人格の完成に近つくようにしています とお話あり私ともに幾度か聞かされてまいりました 爾来終始一貫世界平和顕現を目標として修養団捧誠会を創設 まことは天の道これを行うは人の道なりと提唱し実生活に之れを指導して来られたその間第二次世界大戦を予言して不敬罪治安維持法違反に問われ幾度か投獄されるなと凡ゆる迫害困難を克服されたのてあった かねてより亡妻志まは豊島家一族の救われた恩恵に報いるためにこの地に記念碑を建てたいと念願していたのて一族はその念願を実現したい決意を持っていたたまたま総裁先生御足跡四十周年を迎えるに当りこの趣旨に感動された篤志の方々の協力を得て 総裁先生の御足跡を記念してこの碑を建立した
昭和三十九年二月十二日 豊島睦作
和弘
靖子
清堂亀井安之助謹書
神石・和石
名称 | 碑文 | 所在地 | 除幕日 |
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伊東ご足跡碑 | 御足跡記念碑 | 静岡県伊東市 音無神社境内 | 1964/02/12 |