今月の言葉

2019年11月

終始一貫 ― 反省と感謝でのり越す

私の今日までの歩みは「真捧(しんぼう)」の二字に尽きる。「真捧」は「捧誠(ほうせい)と同意義である。誠(真)を捧げるーその「真捧」はまた「辛抱」に通じる。いかなる艱(かん)難辛苦(なんしんく)にあっても、それを神慮の試練として受け取り、反省と感謝とでのり越えてきた。
世上ではこれを「我慢」ともいうが、世上でいう「我慢」には感謝も反省もない。いわば握りこぶしのような、固い、こりかたまった姿である。歯をくいしばって耐えているだけである。
私は、これを喜び迎え、感謝を捧げて通りきったのである。それは握りこぶしではなく、手のひらを開き放った、明るい、伸び伸びした姿であった。握りこぶしをほどいて掌(たなごころ)を開くー簡単なことのようだが、人生の問題になると、容易なわざではない。一朝一夕には成し難い。うまずたゆまずの努力と、みおしえの徳の光によってはじめてなし得られることである。

「枯れ木に花を咲かせるまで努力せよ」というのが、私の信条の一つである。
私の少年期・青年期はまことにみじめであった。貧乏暮らしの中に早く父を亡くし、早くから働かなければならなかった。15歳のとき(大正4年)、栃木県のいなかを飛び出し、東京という大都会の荒波と誘惑にもまれながらその中にただ一つの目標を目指して生き抜いた。
その後昭和4年に菊のとの結婚になるが、この結婚とそれに続く夫婦生活は、世の常識を外れた珍しいものであった。共働きの貧しい中から、人々の救済に物心共に捧げ尽くし、その果ては、思想取り締まりの法(不敬罪、治安維持法)に問われて、刑務所行きをすること前後4回、通算3年半を獄舎に過ごした。それは大正12年(23歳)から昭和13年(38歳)までの15年間のことで、いわば私の青春時代の大半が暗い獄舎に消えていることになる。

今も忘れない。刑を豊多摩刑務所で終え、出所したのは昭和13年4月であった。世は春、人々は花見の宴に酔っている時、私はようやく社会の空気を吸えたのであったが、 顧みれば私はすでに38歳になっており、妻菊のもまた34歳を数えていた。お互いに人生の半ばを通り越し、しかも私たち二人には何の蓄えもなく、相も変わらず素寒貧であった。現実の条件を考えてみると、これほど索漠たる人生はないであろう。まさに「枯木」同様であった。富もなし、名誉もなし、学歴もなし、勤め口はなし、心あてにする人はさらになし、あるものはただ二人の健康だけであった。それから30年近い歳月が流れた。そのうちに枯木に花が咲き実を結んだのである。今の私の姿がそれである。

多くの人は花も咲かぬ間に「しんぼう」の棒を折ってしまうのである。倦(う)まず弛(たゆ)まず初志を貫き通すところに修養がある。と言っても私とで肉体を拝借して生きている人間である。時には寂しい心を持ったこともある。来る日も来る日も粉末と野菜くずの雑炊をすすったり、パンの切れ端をかじったりしているとき、たまたま飼い猫が白いご飯に鰹節をふりかけてもらって食べているのを見て、猫でさえも白い飯を食べているのに…と思わず涙をこぼしたこともある。それでも人を恨(うら)めしく思ったり、妬(ねた)んだりすることはなかった。どこまでも人の幸福を喜び、祝福してあげてきた。

「終始一貫」は本会の趣旨である。終始一貫変わらざるが「まこと」である。「まこと」は不変である。いかなる環境に置かれても、負けずに勝ち抜いていくのが「まこと」の姿である。眼前の利害に迷って、右に走ったり左に走ったりするのは「まこと」ではない。世にはそのような生き方をする人もある。目先きがきく、利口者だと人に羨ましがられ、一時は花も咲かせるが、実を結ぶところには至らない。

(出居清太郎著『敬霊気』第1巻)