会員の思いと行い

やまいの存在論について

私は昔から趣味でコーラス活動をしておりますが、もう40年くらい前のことです。当時私たちに歌を教えてくれていた先生は、高校時代に通学中バスが事故を起こしてしまい、脊髄損傷を起こして下半身に後遺症が残ってしまったという方でした。しかし彼女は非常な頑張り屋で優秀な人でしたので、一生懸命ふんばって歩けるようになりました。大学では福祉系の勉強をして、音楽療法なども専攻されていたようでした。その方が学生時代に書いた卒業論文が「病の存在論」という名前でした。私はその題名に大変印象深いものを感じました。病の存在論とは何だろうか? 読んでみますと、結論的には、病というものは嫌なものであるが、全く嫌なものだけであって意味がないものではない、ということを訴える内容でした 病を通して教えていただくことがたくさんあって、病の存在そのものに意味がある、それは神が与えてくれたものなんだとうったえていました。彼女はミッション系の学校でしたからそういう内容のことが書かれていたのですが、非常に感銘を受けたことを今も覚えています

私は東洋医学の臨床家として毎日、病を抱えている患者さんと交流しております。ですから、あっ、そうかと思いました。毎日来る患者さんは病気を抱え、嫌な思いや心配を抱えているから、機嫌のいい人はいません。そこで「病気をして、あなた何に気づきましたか、何を勉強しましたか、何を感じましたか?」とお聞きしてみる。そのようなことを実行してゆく間に、私は相手をよく見て、考え、そして話をしていくというようなことができ始めたのです。そうした話し合いの中で、病を得たことによってこういうことが分かった、成長できたんだと、だんだんに気づいていき、これはとても有り難いことなんだと、その人が感謝できるようになれば、「病の存在」に意味があるということになっていくのです。

そういう体験を自分の日常の生活の中に組み入れていくことが、一つの大きな人生観というか、毎日の生きてゆく上での自分自身の生活信条を生むきっかけになりました。さらに、患者さんに向かってそういう偉そうなことを言っていますと、自分自身がそれに見合う人間にならなければいけないと思いますし、口先だけではだめで、自分が変なことをしていては相手に通じないし、そういうことを体験しながら、だんだんと私自身の生き方が変わってまいりました。 人々の悩みを聞いて相談に乗って、その人の魂を救済していくということを考えるようになっていったのです。人のことばかり心配していたら自分の足元が危うくなるのではないかという人もおられますが、やはり己を虚しくしていく、自分のことはおいておいて、人のことを考えてみる、そういう無条件な心が大切であって、自分の利益になることばかり考えて行なっていると、いつかは欲によって行き詰まってしまうのだと思いました。

そのような生き方の大切さなどを患者さんにも申し上げます。皆さん、ここが痛い、ここが辛いと言いますし、実際その通りですが、自分の身体のことばかり辛いとか、自分のことだけを言うのではなく、同じ病気で悩んでいる人がたくさんいる、その病気のおかげで同じ病気の患者さんの気持ちが分かるでしょう。そのことを教えてくれるために病気になったと思えば、同じ病気の人に対して気持ちを向けていけばいいんです。自分のことを忘れた方がいいですよ。そんなに心配しなくてもあなたはもうすでに救われているんだから忘れなさい、と申し上げるのです。それこそ己を虚しくして、他人の魂を喜ばすことに気持ちを向けていって、少なくとも自分がお役に立って、相手が喜んでくれたりすると、大きな喜びを感じることができます。そういう喜びは、自分だけの喜びに勝る本当に何者にも替え難い喜びなのだと思いますよ……とうったえます。

今の若い人たちはすぐに、お金お金と言います。現代は格差社会と言われ、あの人と自分は同じような仕事をしているのに、なんであの人が10万円で私が3万円なのかと、7万円の差はどこにあるのかと、そういうことを言う人が多いのですが、そういうことばかり考えていると幸せになれないと思います。いったん自分のことは置いておいて、自分はもうすでに救われていて、自分のできる範囲でどういう生き方をすればこの世に生まれてきた甲斐があるのか、自分の生きがいは何かを考え、そこから実行して達成感を得ることができれば、その喜びは10万円と3万円の給料の差7万円に持っていた不平不満が吹っ飛んでしまうくらいの喜びになるということを、知らなければならないと思います。

そういう気持ちの切り替えが大事だと、若い人に話をしているのです。しかし若い人には正義感がありますから、悪いことをしている人、ずるいことをしている人を許さないという気持ちがあります。それも大事で、正すところは正していかなければいけないわけで、何でもお任せというのではなく、10万円と3万円の差を埋めていくことも社会の中では必要です。 一方、それこそ自分を捨てて人のために尽くすことも必要です。なぜそういうことをしていかなければならないのかということを考え、意を決していく時に、そこで初めて見えないものを意識する心、見えないものを畏怖する念というものが必要になってくるのです。 目に見えないけれど、心から親しんで、心から信頼し、心から畏怖する「おてんとうさま」というものの存在が必要なのです。それが身についたら「病の存在」に対しても、それこそ心から素直に、ありがたく受け取ることができるのではないでしょうか。

(M男 会員の手記をもとに編集したものです。)